追悼 四国情報通信懇談会 元会長(前顧問)田崎三郎氏のご逝去を悼んで

当懇談会の会長等をお務めいただいた田崎三郎愛媛大学名誉教授が、去る令和2年9月15日に86歳でご逝去されました。 田崎氏は、当懇談会の発足時から運営委員長を、その後、平成21年から平成26年まで会長を務められました。平成27年からは顧問に就任いただいておりました。 ここに生前のご厚誼に深く感謝いたしますとともに、謹んでご冥福をお祈りいたします。

四国情報通信懇談会第29回総会・記念講演会(平成26年4月22日)

四国情報通信懇談会創立30周年記念講演会愛媛会場

「四国地域情報化連携サミット」(平成27年10月20日)

 


御経歴・受賞歴

<四国情報通信懇談会関係 御経歴>

昭和60年 懇談会発足時に運営委員長に就任(~平成21年)

平成21年 会長に就任(~平成27年)

平成27年 顧問に就任

 

<御経歴>

昭和47年 愛媛大学工学部教授

昭和51年愛媛大学計算機室長

平成11年 愛媛大学名誉教授、松山大学経営学部教授(~平成14年)

平成12年 映像情報メディア学会フエロー、電子情報通信学会フエロー

平成13年 愛媛県IT推進協会会長(~平成21年)

平成14年 広島国際学院大学工学部教授(~平成16年)

平成15年 愛媛県ITフェア実行委員会会長(~平成21年)

平成16年 尾道市立大学経済情報学部(情報系)教授(~ 平成20年)

平成18年 電子情報通信学会名誉員

平成19年 愛媛県ネットワーク防犯連絡協議会会長、映像情報メディア学会名誉会員

平成21年 愛媛県IT推進協会名誉会長

 

<受賞歴>

昭和61年 電気通信学会論文賞

昭和62年 電子情報通信学会著述賞「情報理論一基礎と応用」

昭和63年 電波の日功労者表彰、英国工学技術学会(IET) Fellow

平成元年 愛媛県政発足記念日功労者知事表彰、電子情報通信学会業績賞

平成 3年 テレビジョン学会業績賞

平成 9年 米国電気電子学会(IEEE) Life Fellow、情報通信功績賞

平成10年 郵政記念日郵政大臣感謝状

平成12年 米国電気電子学会 Third Millennium Medal、松山大学功績賞

平成17年 電子情報通信学会功績賞

平成18年 映像情報メディア学会功績賞

<追悼文>

愛媛大学 社会連携推進機構 教授 坂本 世津夫氏 (元・運営委員長(平成21年度~平成26年度))

私事ではありますが、平成19年度より四国情報通信懇談会の運営委員となり、2年後の平成21年度に運営委員長に就任しました。田崎三郎先生は同時に会長に就任され、平成26年度をもって会長を退任され顧問に就任されました。私も、平成26年度をもって四国情報通信懇談会の運営委員長を退任しました。

 

田崎三郎先生が会長に就任されたのは平成21年の第24回の総会であり、田崎先生はそれまでの23年間、ずっと運営委員長として四国情報通信懇談会(四国の情報通信)を引っ張り、育ててこられました。それは、強いリーダシップというよりはむしろ組織や人や情報化というものをソフトに包み込むようなマネージメント、強いて表面には出さないマネージメント(管理力)だったと感じています。 そのことが、日本の情報通信懇談会の中でも四国情報通信懇談会の活動がユニークであり活発に続いている理由ではないかと思います。先日、第36回四国情報通信懇談会総会が開催されました。Zoom を使ったオンラインでの会議でしたが、適切な言葉ではないですが、「相変わらず」良い会だなと思いました。それは、やはり30年以上にわたり四国のICTの流れを作ってくださった田崎三郎先生のご功績だと思います。運営委員会の議事録や活動については、全て、デジタルデータで保存しています。平成20年度の運営委員会の議事録を見て、懐かしいと同時にスマートな議事だったなと思いました。

 

田崎先生は、「こうしなさい」と言うのではなく、いつも委員全員の意見を聞いて判断しておられました。対応はソフトではありますが、その裏には単に1年間の活動ではなく、情報通信の発展、今ではDXですが、そこに繋がる道筋を常に考えられていたのだと思います。田崎三郎先生が会長であった6年間、運営委員長として一緒に仕事をさせていただいたことは、何よりの想い出であります。

最後になりましたが、四国情報通信懇談会の発展に対して心から御礼申し上げます。

 

愛媛大学大学院理工学研究科 教授 都築 伸二 氏 (前・運営委員長(平成27年度~令和2年度))

田崎先生は、私の学生時代の恩師であり、愛媛大学に戻りましてからは上司でもありました。大学 に入学して間もなく、田崎先生に呼び止められ、「アマチュア無線部を復活してみないか」と声をか けて頂いてからのお付き合いとなります。気さくなお人柄の先生は、サークルのコンパにも何度を参 加してくださいました。あの頃はもちろんディジタル記録や情報理論の大家であられるとは露知ら ず、生意気な口を利いていたことを思い出すたびに冷や汗が出ます。

 

四国情報通信懇談会が発足した1985年は、私が社会人になった年でもあります。この年、通信の自 由化ということで、電電公社が民営化され、通信白書(郵政省)には「テレトピア計画」「ニューメ ディア」「双方向CATV」「INS」といったキーワードが踊っています。私の初仕事も大阪の駅ナカに設 置された「キャプテンサービス」端末でした。一方で、すでに「地域社会の高度情報化」という章が 設けられています。1990年代になり東京の一極集中がますます進むなか、地方自治体は「情報スーパ ーハイウェイ」を構築。2000年代になるとパソコンとインターネットが広く普及していく一方で、デ ジタル・ディバイド問題が顕在化し、ブロードバンドインフラの整備とICTの利活用の啓蒙活動、と 現在の四情懇の活動につながっていきます。これらを先導され続けた田崎先生のご功績の偉大さには 敬服の念しかありません。

 

先生が愛された言葉は「気」で、これが墓碑に刻まれるとのこと。時差ぼけがあるはずなのに国際会議で眠そうにされているお姿を見た記憶はありません。四情懇の管外研修でお疲れのはずでも、懇親会の2次会では、十八番の「マイウェイ」「イムジン河」を原語で熱唱されるたびに、このエネルギ ーはどこから湧いてくるのだろうと感心したものです。

 

写真の講演題目「ENIACからIoTへ」のとおり、学術と地域社会の高度情報化に全力で貢献されつづけた田崎先生。今でも、肩をポンとたたかれて、にこやかなお顔で声を掛けられそうです。

心からご冥福をお祈りいたします。